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死の床に伏す主人公アン・ロード。そのかたわらに、屋根裏で見つけたバルサムの香りの枕を娘がそっと差し出す。はじめはそれが何かもわからなかった。だが不意に、その香りでアンは40年ほど前の「嵐のような記憶」をはっきりと思い出したのだ。 暗闇の中、はるか昔の夢へと足を踏み出したとき、体がふっと軽くなった。あたりは漆黒の闇、自分の腕さえ見えない。うだるような暑さの名残りが感じられる、ある夏の夜。ふりあおぐと、夜空に枝を広げるエゾマツの輪郭がかろうじて見えた。空には星がまたたいている。足元の道路もまだ生温かい。と、横から青年の手がのびてきて彼女の手をとった。 意識と無意識のはざまを行きつ戻りつしながら、アン・ロードは、かつて経験した深い愛情と激しい失望を、死の床で再び経験する。暗闇にいる青年はじっとしたまま動かない。それは、彼がアンの最愛の男性だから。だがそれ以上に、彼の将来が閉ざされてしまっているから…。その間にも、現実の世界では友人や親戚たちが病床のアンを訪れる。そして、彼女は熱にうかされながらも、鮮やかによみがえった思い出の世界へとのめりこんでいく。 スーザン・マイノットは3作目にあたる本書で新たな挑戦をしている。まず、70年にもわたる主人公の膨大な思い出をテーマとして描ききったこと。さらに、これまでのウォレス・ステグナー式のシンプルな文体から幅を広げ、『To the Lighthouse』(邦題『燈台へ』)のヴァージニア・ウルフを彷佛とさせる、抽象的でこの上なくすぐれた文体を駆使していることだ。 『Evening』は、若き日の一瞬のせつない思い出と欲望を描いた作品で、フィクションとしても詩歌としても楽しめる。昔、アンが身を焦がした恋愛の詳細が、まるで星々の輝きのようにひとつひとつゆっくりと明らかになっていく。その控えめなペースは、本書の洗練された魅力をよりいっそう高めているといっていい。
暗闇の中、はるか昔の夢へと足を踏み出したとき、体がふっと軽くなった。あたりは漆黒の闇、自分の腕さえ見えない。うだるような暑さの名残りが感じられる、ある夏の夜。ふりあおぐと、夜空に枝を広げるエゾマツの輪郭がかろうじて見えた。空には星がまたたいている。足元の道路もまだ生温かい。と、横から青年の手がのびてきて彼女の手をとった。
意識と無意識のはざまを行きつ戻りつしながら、アン・ロードは、かつて経験した深い愛情と激しい失望を、死の床で再び経験する。暗闇にいる青年はじっとしたまま動かない。それは、彼がアンの最愛の男性だから。だがそれ以上に、彼の将来が閉ざされてしまっているから…。その間にも、現実の世界では友人や親戚たちが病床のアンを訪れる。そして、彼女は熱にうかされながらも、鮮やかによみがえった思い出の世界へとのめりこんでいく。
スーザン・マイノットは3作目にあたる本書で新たな挑戦をしている。まず、70年にもわたる主人公の膨大な思い出をテーマとして描ききったこと。さらに、これまでのウォレス・ステグナー式のシンプルな文体から幅を広げ、『To the Lighthouse』(邦題『燈台へ』)のヴァージニア・ウルフを彷佛とさせる、抽象的でこの上なくすぐれた文体を駆使していることだ。
『Evening』は、若き日の一瞬のせつない思い出と欲望を描いた作品で、フィクションとしても詩歌としても楽しめる。昔、アンが身を焦がした恋愛の詳細が、まるで星々の輝きのようにひとつひとつゆっくりと明らかになっていく。その控えめなペースは、本書の洗練された魅力をよりいっそう高めているといっていい。