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なぜ意識は実在しないのか (双書 哲学塾)の商品レビュー 私的言語は不可能、と私は思う
著者は本書末尾、「この講義で言おうとしていることは、言い得ない」と種明かしする(p157)。これは言語が第0次内包の相対化であり、その内部に消去されたものの痕跡は残らない、という主張と対応する(p68)。また自分の知覚を言語報告する場合、私は自分を他者化(=ゾンビ化)し全面的に志向的になる、とも(p131)。 山カッコの<私>がついに消える
永井氏が一貫して追究してきた「私の独在性」の問題を、新しい材料と切り口から考察した新著。デイヴィッド・チャーマーズの大著『意識する心』を批判的に検討しながら、新しい語り口で問題が定式化し直される。そのポイントは二つあり、(1)過去・現在・未来という時制が一本の線形時間に並ばずに累進的に下降し続けるマクタガートの「累進モデル」を、「私」に適用して、「私」と「他者」は同一平面に並ばないことを示したこと、(2)「私」を「第ゼロ次内包、第一次内包、第二次内包」の三つに区別し、言語による志向性の文脈だけでなく、現実性−可能性という様相文脈も合わせて統一的に論じたことである。前著『私・今・そして神』では、独在的な<私>の「開闢」であるライプニッツ原理が、その<私>を「われわれの中の一人である私」に客観化してしまうカント原理との対比で語られた。本書では、その対比がさらに洗練されて提示される。世界はどこまでも「私に」現れるものであり、他者もまた「私に現れる光景の中の一要素」でしかないのだから、この光景の全体(=私の意識)が、光景の中の一要素である他者に属するはずはない。だから「他者にも意識はあるのか」という問いは、もともと誤った問いなのだ。にもかかわらず、「私の意識」もまた「各人のもつ意識」の一例として、one of themになってしまうのは、私が根底から言語化されており、「言語が見せる夢」(p146)のせいである。この論点を詰めた本書では、永井氏が愛用してきた山カッコ付きの<私>はもはや登場せず、一切の記述を廃した<これ>に取って替わられる(147)。 東洋の言語環境で哲学的キョンシーの問題を考察するというのはちょっと笑えるのではないかな、なんてふとどきなことも思ってしまう
3日間の講演のまとめ。永井先生が語っているのは、意識が欠けた、クオリアが欠けた人間=ゾンビが可能であるとチャーマーズが『意識する心』などで語っている内容は間違っている、というか、クオリアの欠如を想定できるかという問題の周辺をもっと考えるべきだ、ということです。それより問題なのは《言語とは、世界を人称的かつ時制的に把握する力なんですね。そのことによって、客観的世界というものがはじめて成立する》(p.109)ということなんだ、と。クオリアが欠如した人間(ゾンビ)を想定できるかという問題をもっと味わうべきだ、というのが2日目までの講演の内容。なんとなく理解できるのはここらあたりまで。3日目も深刻な論議が繰り広げられるのですが、どうしても《なぜか私という唯一例外的なものが存在し、しかもそれが世界の中に無数に存在している通常の「意識を持つ個物」の一つでもあるから、このありふれた事実こそが驚くべき事件なのですよ》(p.150)という凄さが、味わえないんですよね…。 前人未到の一歩?
1、物質にすぎない脳がなぜ意識を生み出すか? 2、意識を持つ者たちのうちなぜこの者が私なのか? この二つの問題は独立に見えるし、この著者も本書まではそう扱ってきたと思う。1の問題はもちろんあるが、それとは独立に2の問題もあるではないか、というように。 やはり哲学は詭弁?でも面白かった!
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