|
商品の情報
探究〈2〉 (講談社学術文庫)の商品レビュー スピノザによるトランスクリティーク
最近柄谷の『探究2』を読み直している。 誤解に基づく暴論
心に決めた女性に婚約指輪を差し出した後、普通は「結婚して下さい」かそれに類する求婚の言葉を重ねる筈なのに、求婚する事の不安を当の相手にうち明ける――柄谷行人はそんなちぐはぐな事をしている。行為の上では既に決断は既に為されてしまった筈なのに、言葉の上ではするか否かで迷っている。行為の時間と言葉の時間がずれている。これは本作だけではない、柄谷の著作全ての問題だが、本作にはその上論の根幹であるキルケゴールの単独者についての誤解がある。キルケゴールは実存の段階を四つに分ける。私は優れている――これは美的、私は田中だ――これは倫理的、私はある――これは宗教的(A)、私はなる(クリスチャンに)――これは宗教的(B)。柄谷が取り上げるのは実存の倫理的段階であり、それだけならキルケゴールを引き合いに出す必要は別にない。確かにイエスの名はクリスチャンにとって代え難いものだが、それは本来肉体を持たない筈の者が肉体を持って現れ、さらに負うべくもない確定記述素を全て身に受けて死んだ――そうした人の名であるからだ。それ以外の名は自分の名も含めて全く問題にならない。キルケゴールの試みは、キルケゴールの名もレギーネ自身の名も問題にならなくなるような仕方で、レギーネをイエスと結びつける事だったのだが。よく読み直して論を立て直すべきだ。 ベルクソンを超える
探求IIの章立ては逆転しています。 別にいんじゃない。
>挫折ばかり問題にして現実を知らず 単独性とは
この本の主題は「単独性」である。柄谷によると、単独性とは個別性とは異なり一般性に回収されない、「この私」の「この」性のことである。この「単独性」について過去の哲学者の論考を引き合いに出しながら著者自身の思考が展開される。 本の最新売り上げランキング - トップ10
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||