形式は楽しめますが・・・
次々に展開される推理とその根拠、背景。
文学的な堅めの文章が好きな人、思想に興味がある人には一気に面白く読める。私もその一人だ。人物も興味深く作りこまれている。死者となった石塚の痛切な告白部分もかなり読ませる。しかし、奥泉光の他の作品を読んだ者としては、「またか」という感想を抱かざるを得ない。『葦と百合』『吾輩は猫である殺人事件』両作にも見られた、意図的な「ずらし」の構造。正直なところ、「ああ、またこうして話をずらして終わるのか・・・」と思ってしまった。しかし、こうした傾向が顕著であるのは、この作家がこうした「ずらし」について拘りを持っていることの現れであろうし、いずれの作品もその拘りへの試みと考えることができよう。
知性の物語、想像力の物語、肉体の物語
十年以上前の友人の死の謎をめぐる推理小説と幻想小説と恐怖小説の三態構成。知性の物語、想像力の物語、肉体の物語。そしてシューマンの作品47、ピアノ四重奏の響きとともに四人の男たちによって再び封印される死者の記憶。最後に明かされる「復活」の痕跡。《死者は去り、死者の記憶は消える。》 グノーシス思想(反現実主義、反宇宙主義、霊肉二元論)がふたたび蔓延する時代を先取りし、身体性を抽象した「純粋な関係」への希求と身体的な営みからはじまる関係を肯定する「幸福な思想」への憧憬との分裂を「刻印された肉体」をもって、文字通り身をもって生きた「帰国子女」の叫び──「アナタタチハ、ネッカラノ、ニッポンジン、ナンダナ!」「アナタタチハ、死ンデイルノト同ジダ」。
初期マルクスの疎外論にノヴァーリスの魔術的観念論を接ぎ木した思考を紡ぎ、背中に痣(聖痕)をもった魚(つまりイエス)が最期に残した言葉。
《あなたたちは祈ることをしない。だからぼくはあなたたちを信用しない。祈るっていうのは想像することでしょう? いまとは違う現実に向かって、こことは違う場所に向かって、リアルに、いろいろに、想像を巡らせることでしょう?》
《人間は本当に理解しあうなんてことは絶対にできない。でも、人間には理解しあう以上のことができるんじゃないでしょうか? あなたたちが僕を理解しないで、僕があなたたちを理解しなかったのはたしかだと思います。しかし、本当は、僕らは理解しあうことなんかじゃなくて、もっと別のことをすべきなんじゃないでしょうか?》