もう少し気軽に音楽を楽しもう
本書は、クラシックを権威的に崇拝するのはドイツ評論家の陰謀だ、と説く痛快な本である。 18世紀の音楽の中心はイタリアであり、あのモーツァルトも音楽後進国の作曲家としてハクを付けるため、名前をイタリア風に変えた。バッハは無名のまま生涯を終えた。当時はヘンデルやハイドンの方が有名だったし、莫大な報酬も手にしていた。などという初めて聞く話が満載である。
映画「アマデウス」では、モーツァルトの才能に嫉妬したサリエリが彼を殺したことになっているが、本書を読むと、音楽先進国のイタリア人で地位もあるサリエリがそんなことをするはずがない、という気持ちになる。
作曲家中心の権威的な音楽史観のおかげで、譜面と違う音は一音も出してはならないという伝統が出来あがり、やがて衰退の一途を辿った。もっと演奏者が自由にふるまい、聴衆が楽しめる音楽を復活させるべき、と著者は指摘する。
クラシック音楽を聞く人に“なんだかインテリっぽい”という雰囲気を感じ、漠然とした憧れでクラシックを聞き始めた人は多いと思う。
私も「憧れ派」の一人だが、いやはやクラシックファンの先達というのはスゴイ人が多いのに驚く。高校の友人を訪ねた時、16歳で既にクラシックレコードを300枚も持っていた。会社の先輩には「フルトヴェングラーの現存する録音を全て集めるのが趣味」という人がいたし、「同じ曲でも指揮者や録音時期が違うと別物だ」と言ってマーラーの4番だけで20枚以上もLPレコードを集める人もいるそうだ。新聞で吉田秀和のクラシック評論を読んでみるが、何を言っているのかよく分からない。私から見ればスゴイ人たちは「マニア」の域に入っていて、とてもじゃないが同じ土俵で話ができない。知らずしらずのうちにクラシック音楽に畏敬の念を抱くようになった。
そんな私も、この本のおかげで、もう少し気軽に音楽を楽しめるようになるかもしれない。
反音楽史を読む
ここで問題となるのは音楽というよりも音楽史である。著者はクラシック音楽が衰退している現実を認め、ドイツの古典的作曲家を絶対化する音楽史観、さらにその基礎にある厳格主義的音楽理解にその原因を求めた。 著者は歴史的方法を用いて音楽史をイタリアのオペラ音楽を焦点として再構成し、ドイツ器楽音楽を中心とする音楽史観にたいするアンチテーゼを提出する(第一部と第二部)。
第三部では一八世紀のドイツ観念論と美学を背景に「美と崇高」の体現者とみなされるベートーヴェンが現れ、作曲家中心の音楽観が作られるとする。その後、シューマンはこの作曲家中心主義、さらには音楽美を譜面に内在させる見方を徹底し、「形式」、「作曲法」、「作曲者のねらい」、「精神」によって「よい音楽」と「悪い音楽」を区別するようになる。
著者によれば、「よい音楽」と「悪い音楽」を譜面だけで判定する立場は、音楽美が演奏者と聴衆との関係、「音楽の場」において成立することを無視している。
「ドイツ人がでっちあげた虚構を暴く」との言葉は挑発的である。このせいか、ベッカーやアインシュタインといったドイツの研究者しか扱われていないとの指摘もある。しかし、著者は、後進国ドイツにおいて発生した民族的覚醒の文化運動、ドイツ観念論とそこにおける美学、さらに文学のシュトゥルム・ウント・ドラングなどとの関連の中でドイツ音楽が作曲家中心主義的な音楽観を確立したことを述べているのである。
さて、クラシック音楽が危機的な状況にあるのは事実である。しかし、その原因は著者がいう演奏家や聴衆を無視した作曲家中心の立場のためであるのだろうか。たしかに、音楽はまず知覚現象であり、だからこそダールハウスのいう「音楽の現象学」が成立する。その限りでは聴衆が楽しく愉快な知覚を経験できる音楽が大切であるというのは当然のことである。しかし、これが危機への処方箋になるのであろうか。