大学卒業の頃の思い出の作品
大学を卒業する頃読んだ本です。
どこかで読んだことがあるような内容(蝶々夫人だとか)なんですが、そのことが問題にならないくらいの筆力で読ませます。
読むと、登場人物や登場人物のモデルになった人のことが気になってその人たちが考えていることを知りたいと思うようになりました。生き方は自身で選択し自身で責任を取るのは当たり前のことなんですけど、そういうことを考えてはいけない、籠の中の鳥という感じの状況、立場にある人は何を考えているのか…そのようなことが知りたくなったのです。
人は誰しもなにかしがらみに囚われているものだと思います。それが、先祖からの因縁だったらどうだろうと、この作品は恋愛のことですが他の事柄に当てはめて考えてみることもできます。
島田雅彦はどの作品(小説)を読んでもずるい人だという印象を与える人ですがこの作品でもやはりずるさを感じてしまいます。
このずるさはうまさに言い換えることができるのかどうか…今のところ判りかねています。
駱駝
個人のレベルでの思考が表象されるとき、そこに存在していた無数の真実や他者と向き合おうとする思いは主体から乖離し、一たび表象された思考は他者のそれぞれの解釈に任されることとなる。思考は言葉や文字によって個人の抑制の範疇を越えた怪物となる。誤解はそういったところから生じ、弁明の言葉や文字によってその誤解は更に進み、やがて手遅れとなる。日本現代詩を代表する詩人・田村隆一の残した、“言葉なんて覚えるんじゃなかった 言葉のない世界 意味が意味にならない世界に生きていたら どんなによかったか”という、「言葉」が身に染みる。だが、当然、「言葉」は時として愛を伝え、大切なものを他者と交感する手段として、また思考の伝達にも大きく貢献する。島田雅彦は、その「言葉」を使う小説家として、この小説で大きな事をやり遂げた、と思う。
あざとさが鼻に付くけれど、おもしろいことは否定できない
典型的な近代恋愛小説。美しい男女が出会って恋に落ちるも、階層の壁が2人を隔てるという、「ロミオ&ジュリエット」以来の報われない悲恋の物語。それが主人公の一家四代にわたって繰り返される。 蝶々夫人の孫の恋した相手がかの有名女優でかつマッカーサーの愛人だったり、その息子の初恋の相手は真空の場所に住むかの女性だったりと、あざとすぎる設定。どう考えても馬鹿げていて、この文学っぷりは著者が毛嫌いしている辻仁成あたりが真似したがるんじゃないの、とか言いたくなるんだけれども、やっぱりおもしろいことは否定できない。
しかし「母親や近所のおばちゃんにも分かるように書いたんだぞ。」という発言(「波」2000年12月号)は著者の本音だろう。それに、恋愛の相手がどれだけスキ!ャンダルだろうと、恋愛自体は定型的(というか、近代恋愛小説である限りそうなんだけど)だから、語り口の工夫やら何やら小説技法の部分に関心がない人にとっては退屈なだけかもしれないとは思う。