出逢えた悦び・・・「縁」か?「業」か?
「座右の銘」となった一冊。「これは 天 についての物語である」
・・・これは著者の あとがき から の抜粋である。
確かに 「科学」 「宇宙」 「仏」 を 活字にし、
更にそれに成功した稀な作品であると思う。
これは只の “ SF ” じゃない。
そして只の “ 文学 ” でもない。
これまで、〔夢枕獏〕を倦厭してきた人達にもぜひ読んでもらいたい。
私はこの著者の著作はこの作品が初めての出逢いだったし
実は“伝奇バイオレンス”と呼ばれてるモノは読んでない。
どちらかと言うと〔宮沢賢治〕のファンである。
しかし、本を購入して家で表紙を捲るまで 賢治 が絡んでいるとは思わなかった。(凄い廻り合わせだ)
浸って欲しい 『 天 / sora 』 を
本当に逃げていないのか
下巻は一気に読まて貰った。舞台は蘇迷楼(スメール)、生物の進化を辿っていった先の人間世界である。さすがに人間世界の話は分かりやすい。大きな問いを畳んでいった先に二つの問いが残る。双人としての主人公の一人の属性は今や隠す事無き宮沢賢治である。冒頭「銀河鉄道の夜」のサソリの話が出てくる。この物語は修羅の道をたどってきた賢治に決着を付けさせるという一面を持つ。夢枕獏は最後の問いを逃げない事をこの物語を書くときの条件にしたと言っている。なるほど問いには逃げなかった。しかしせっかく「とし子」を登場させたのにあの扱いはどうなのだ。私には「逃げた」ように感じた。
「正しい問いのなかには、すでに答が含まれている」という言葉には私は全面的に「肯」という。しかし、この物語は正しく問うているのだろうか。私には問うていないように思えたのだが、それは私の中に「答」がないからなのだろうか。
こういう物語があってもいいと思う。しかし私にはせっかく賢治に姦淫と(生物を殺すという意味での)殺生を犯さして更には再びとし子に逢わせるという体験をさせたにもかかわらず、いっこうに決着が付いていないように思えた。
人は、幸せになれます。
タイトル以上、言うことはほとんどありませんが、少しだけ書きます。
アシュヴィンは、---胃にしこりを持つ螺旋収集家と肺を患ったイーハトーブの詩人の、二人の魂を持つ双人は、二つの問いを出すという獅子宮にまでたどり着く。「問いは答であり、第一の問いと第二の問いは同じ答であり、しかし第一の問いの答と第二の問いの答は異なる答である」と。
アシュヴィン(縁)はカルマ(業)-「修羅であり、因果であるもの」を連れ、獅子宮に足を踏み入れる。問いは何か?そして答は?
参考文献に、宮沢賢治が信仰していた法華経について、岩波文庫の「法華経」(上)(中)(下)がいいと思います。他にも岩波文庫の「般若心経・金剛般若経」(字の大きいワイド版もあります)か、講談社学術文庫の!「般若心経」が、原典を変にいじらないでいいんじゃないかと思います。