語り部について。
クリスティ文庫版として04年に再販された作品であり、ハヤカワ・ミステリ文庫版とは違う方が翻訳したものです。今回の訳者は、翻訳家として充分なキャリアをお持ちのようで、この作品も簡潔で分かりやすい読後感を得ることが出来ます。ですが、私としてはハヤカワ・ミステリ文庫版を推したいのです。
確かに同書は、些か文体が古びていて、回りくどいと認識されてしまう部分があるかもしれません。もし、これら二つの訳を『採点』するのであれば、多くの方がクリスティ文庫版に軍配をあげるだろうことは想像に難くないでしょう。
けれども、私は、四半世紀も昔に行われたこの仕事から、密やかな矜持と揺るぎない情熱を感じるのです。しかし、それを、明確な言葉によって説明することは非常に難しいとも感じています。
何故なら、ハヤカワ・ミステリ文庫版が纏っているものは、ロジックによって織られたものではなく、感性に属する原始的な感情たちの奇跡的な結びつきによって顕れたものであり、この作品の言葉を借りるのならば、「漠然とした魅惑の性質」を醸し出しているのです。そして、それはこの作品の主人公であるサタースウェイトとその主賓であるハーリ・クィンがもっとも愛したものでもあります。
この作品に興味を持った方は、そのうちの一篇で良いのです。両版を読み比べてみてはいかがでしょうか。そして、その時に生じるだろう、漠然とした感覚を心底で吟味し、その結果を以って、この作品との接し方とする。
そんな方法がこの作品に繋がり方に相応しいのではないか、この作品に魅せられたものの一人として、私はそんな言葉を残したいと思います。