日本オタ特殊論から卒業しよう
筆者によれば、日本のオタクに特徴的な嗜好は、アニメ、フィギュア、美少女ゲーム、エロゲー、漫画、同人誌、やおい、アイドル、パンチラなどに括り出されるらしい。そして、彼らが出現したのは、集団主義的な日本社会で他人と上手に付き合えない若者が自分だけの閉鎖空間に逃避したためだという。 訳者は「本書で明らかにされるのは、まさに他文化から見たオタク像にほかならない」(308頁)というが、本書の採用する認識枠組みは、まさに日本社会が異物視してきたオタク像にほかならない。現実には、人間関係から逃避する人は必ずしもアニメやフィギュア、アイドルを選好しないし、人並みの職業・結婚生活を享受するオタクがむしろ多数であることが明らかになっている。
また、オタク的な文化が国内外で売れる理由は、それが性欲、物語欲をはじめとする人間一般の欲求を満たすことのできる、優れた技術に裏打ちされた商品だからであり、日本発であれば何でも売れるわけはなく、購買層が集団主義社会の犠牲者だからでもない。
80年代に現役のオタで、そして現在オタクに関する言説をリードする論客たちは、社会からの白眼視に適応した結果、自分たちを特別な存在だとして主張する弁舌に長けている。オタクは高度メディア世代のトップランナーだというような彼らの誇大な自己主張を真に受け、恥の文化からオタク出現の日本的特殊性を説明した本書は、日本社会に根強いオタク=異質な他者という視点が、日本人特殊論を加味され輸出された類の代物である。厄介なのは、日本人自身が世界で一番、これらの視点を内面化していることなのだ。
日本だけにとどまらず、現代世界で性的な商品、フィクション中のアイドルを選好する人が必ず「現実逃避する他者」として構築されなければならないのはなぜか。このグローバルかつ非対称な権力関係こそ、この種のハイブリッドな文化を扱う研究の対象とされるべきである。オタクを日本文化特殊論的、性的、文明論的に特別扱い、変態扱いする、旧態依然とした議論の再生産をいいかげん止めることが、生産的であると思う。