日本的心理の「解剖」
著者は、本書において「甘え」の概念を日本独特のものと捉え
「甘え」の語彙があまり見られない西欧社会と比較し、
斬新な日本文化論(あるいは日本的コミュニケーション論)
を打ち出した。本書はその意味で評価できる。著者が、「甘え」は幼児的であるとし、母から幼児に与えられるような
「受身的愛」が日本的コミュニケーションを貫く一つの特徴であるとの理論は見事。
ただ、「甘え」に関連する語彙の話から、精神病理の問題や、個人と集団の関係の分析に入ったりと、論理展開の統一性に欠ける感じがするため「甘え」のイデオロギーを説く本としてのまとまりがもう少しほしかった。
甘えたいのに甘えられない子供が、年をとって大人になると・・・!?
日本人は西洋人に比べて、集団行動を好むとか、NOを言わない、意見
の衝突をできるだけ避けるだとかいうことが、一般的によく言われます
が、ではなぜそうなのか、ということになると、結構あいまいな部分が
多いと思います。
「なぜなのか」ということを土居氏は「甘え」というキーワードをも
とに、さまざまな角度から論じ、解き明かしていきます。 私はこの本を読んで、自分のこれまでの生活を思い起こさずにはいら
れませんでした。
「そういえば俺、あのときこんな行動にでたけど、あれは結局、甘え
が動機として働いていたんだ!」とか、点と点がピタッ!と合わさる感
じ、結構気持ちよかったりします。「あの人、あんな偉そうなこと言っ
たけど、あれも甘え入ってるなー!。」とか。(笑)
そんなスッキリ感を味わいたい方、ぜひ本書をおすすめします。
甘えたいのに甘えられない子供が、年をとって大人になると・・・!?
日本人は西洋人に比べて、集団行動を好むとか、NOを言わない、意見
の衝突をできるだけ避けるだとかいうことが、一般的によく言われます
が、ではなぜそうなのか、ということになると、結構あいまいな部分が
多いと思います。
「なぜなのか」ということを土居氏は「甘え」というキーワードをも
とに、さまざまな角度から論じ、解き明かしていきます。 私はこの本を読んで、自分のこれまでの生活を思い起こさずにはいら
れませんでした。
「そういえば俺、あのときこんな行動にでたけど、あれは結局、甘え
が動機として働いていたんだ!」とか、点と点がピタッ!と合わさる感
じ、結構気持ちよかったりします。「あの人、あんな偉そうなこと言っ
たけど、あれも甘え入ってるなー㡊??」とか。(笑)
そんなスッキリ感を味わいたい方、ぜひ本書をおすすめします。
『菊と刀』への誤解に著者の限界が見える
「甘え」という心の状態が日本人に特有であることを見出し、それを深く追求して貴重な知見を得たことに対しては大いに敬意を表したいと思います。しかしながら、著者がせっかく『菊と刀』を読んでおりながらそれを理解せず、非常に大きい業績に発展すべききっかけをみすみす見逃したことは残念至極です。 著者は、ベネディクトが日本文化を「恥の文化」だと言ったことに関連して、二つの角度から批判しました。①「罪の文化は内面的な行動規範を重んじ、恥の文化は外面的な行動規範を重んずるというとき、前者が優れており、後者が劣っているとされていることは明らかなのである」②「彼女の考え方において罪と恥の感情が相互に全く無関係であるかのごとく前提されていることである。このことは事実無根、明らかに相違する」
しかしながら①も、②も、甚だしい誤解です。恥の文化は、決して外面的な行動規範を重んずるものではなく、罪の文化と同様、内面的な行動規範を尊重するものです。ただ、その行動規範が罪の文化の行動規範と著しく違っているのです。これは、長谷川松治の訳文のまずさのために誤解されやすくなっていますが、原文を読めば正解が得られるでしょう。
②については、『菊と刀』の第十章に次の文があることを指摘しておきましょう。「現に日本人は時によっては、自分の罪業の深さに対して、ピューリタンにくらべても決してひけを取らないくらいに強烈な反応を示すことがある。とはいうもののやはり右の極端な表現は、日本人がおよそどういうところに重点を置いているかということを正しく指摘している。すなわち、日本人は罪の重大さよりも恥の重大さに重きを置いているのである。」
ベネディクトは、決して、日本人には恥の感覚はあるが罪の感覚はないなどと言ったのではありません。
要するに、著者は『菊と刀』の重要なポイントをまるっきり誤解したのです。その誤解が無ければ、「甘え」という現象自体が恥の文化の表れであり、その根底に、第十二章で言われているところの子供のしつけがあること、そして日本文化の型がそれを方向付けていることが分かったであろうと思われます。しかし土井氏は、大魚を逸してしまったのです。