「残酷」が現実だった頃
最近読んだ本で、岩波書店から出版された「敗北を抱きしめて」(ISBN 4000244205)には大いに考えさせられました。そこに記された大東亜戦争終了(敗戦)以降の歴史を読む中で、「うちのオヤジは、この戦後のドサクサを生き抜いてきたのか…、自分はそうした積み重ね(歴史)の中で産まれて来たのだ…」というナントも言えない感慨に襲われました。戦後の高度経済成長期以降に育った人間として、モノに溢れた時代の申し子として、思い上がり天狗になった鼻先をヘシ折られたような気分になりました。と、同時に、「日本中、みんなそうだったのだ。今生きているのは、みーんなその末裔だ。」という一種爽やかな感情も生じました。この「日本残酷物語」は、オヤジの世代ではなく、そのまたオヤジ、またオヤジ、またまたオヤジ・・・くらいの時代のものです。残酷が現実、正真正銘の現実の生活だった時代の事柄です。
一時期流行したグリム童話等の怖い話などというのも、辿っていくとこうした現実に行き着くのではないかと思います。この書籍の中で取り上げられているのは、ドロドロした現実の上澄みだけを掬い取った「お話し:物語」ではなく、ドロドロした現実そのものです。怖いお話しよりなお怖いと思います。でも、それが紛う方無い現実で、自分の親の親の親の・・何某かは、そうした時代を見て、実際に暮らし、生を終え、自分たちに世代を譲ってきたのです。この本を読むとなにかそうした世代の連なり、時代の移り変わりの中に漂っている小さな自分に気づかされるような気もいたします。
この本の編集者の一人に人情の機微に通じた小説家山本周五郎が名を連ねているのは興味深く、また、なるほどという気がいたします。どうぞ是非ご覧になってみてください。へたな小説を百読むよりも得られるものは大きいと思いますので・・
(私のお奨めは,比較的明るい「残酷物語」:「飛騨の乞食」の「仏の福松」です。)