保守の仮装を纏ったラディカル
第一章「戦後の嘘」の話は面白いです。ホンネとタテマエ、というところから、日本の思想についてどういう風に語っていくのかと思いきや、第二章、第三章と進むにつれて面白くなくなります。というのは、読んでいて、「公と私」の話題になると必ずといっていいほど引用されるアレントの読みがアマい、とか、やはりこれはキリスト教圏の議論であり、輸入され変形された疑似民主主義が跋扈跳梁している日本にはカントにせよヘーゲルにせよ適応不能だろう、という感がだんだん強くなってくるからです。
ところが、第四章になると、その面白くないと感じた理由がはっきりします。それは、著者自身もわたくしと同じようなことを考えていたことがわかるからです。西欧の啓蒙主義の延長上にある議論をそのまま日本で主張しても説得力がない、と著者は言います。そして、その打開策として、伝統文化のひとつにヒントを求めようとします。 著者の主張は一見保守的に見えて、実は日本の思想をラディカルに変革しようとする意図を秘めています。その意味では、著者を右にカテゴライズするのは誤読というものだと思います。
議論は面白いのですが、最後に著者年来の主張である「押し付け憲法論」に回帰してしまったのは、どうにかならないか、と思ったりもします。もちろん、著者の言う押し付け論は、保守の方々のように、再軍備や靖国条項を含んだ自主憲法の制定、という議論とは色合いの違うものであることは、著者の名誉のために付け加えておきましょう。しかし、著者の別の著作に親しんでいる方にとっては、「またか・・・」という感想を持たれるのもやむなし、という気がしますが、いかがでしょうか。
著者と共に考えさせてくれる本
公私概念の二項対立からでは思想は生まれないという著者独特のテーマから編み出される日本人論。あくまでも日本に思想が生まれないことを検討し、それを克服するにはどうするかという問題が含まれているものの、プライヴェートな意識から離れた公共性はない、という主張は抽象化すれば日本論を超えて訴えかけるものがある。だからこそハンナ・アーレントは批判されているわけだ。この本の言っていることは言葉に表せば平易に尽きてしまうが、その結論に至るまでに古今東西の思想家の思想を検討しつつ導かれていて、著者の該博な知識がいきつもどりつしながらも、「一つ」の明確な答え――私情を離れない公共性にどう行き着くかが読者と共に考えることができるように構成されている。だから、結論ははじめに言われているにもかかわらず、読者が読み続けていられるのは、著者が司法の問題を解くように判例を読み上げ、対象となっているモノの検討を重ねていくことと似たような過程が示されているからである。それは確かにスリリングといっていいかもしれない。この検討のスリリングさを味わえるのならば、著者がしおらしく反省している文章の読みにくさなど吹き飛んでしまうに違いない。結論は明確にはじめに提示されているのだから、われわれ読者はそれが真なのかどうかを考えていけばいい。そこに晦渋さがほのみえるのは仕方が無い。小林秀雄が担っていた文芸評論の広範囲な視線がここには尚残っている。新書価格で購入できるのは喜ばしい限りだと思う。
公と私
「公」と「私」が対立的な概念でないことを非常に分かり易く解き明かしながら、これまでの対立的な公私概念にある種の欺瞞があることを痛烈に指摘している。そして、その欺瞞が思想を「生み出さない」土壌となっていることを主張しながら、この日本にどのようにしたら「思想」を取り戻すことができるか模索する、きわめて切実な思想的探求である。 公的な自分と、「プライベート」な自己を本当に切り分けることができるのか?
いわゆる<公人と私人>という政治的まやかしに懐疑的な人のみならず、日常的にやたら「プライベートですから・・・」とのたまっている人は一読したほうがよいだろう。
同時に『意味とエロス』、『現象学入門』竹田青嗣(著)を読んでみることをお勧めする。結局私たちは主観からしか出発することができないという現象学的立場と、加藤典洋が提出する公私概念には何か共通するものを読むことができるのではないだろうか。そういった意味では、加藤典洋は非常に理知的に社会像を構想しているといえる。加藤典洋を右派的に読んで妙に警戒する読者(団塊世代か?)に時々出会うが、そういう印象を受けているひとにはなおさら併せて読んでもらいたい。
(思想とは、より高次の価値を生み出す原動力なのだから、あまりネガティブな読み方をするのはやめよう)