サッカーとポピュリズム
カロの細密な銅版画を読み解きながら、そこで展開されているカルチョ・フィオレンティーノ(フィレンツェ風サッカー)を探っていくという趣向。 序文の「サッカーとは『世界一重要な枝葉末節なり』」(p.3)という言葉も忘れられないが、ルネッサンス期のサッカーは、やはりいまのサッカーとつながっているということで次々と紹介される。
例えばカルチョ・フィオレンティーノでは、試合の前の入場セレモニーが、いかに重要な役割を持っていたかということが5章「演出」でふれられているのですが、それとともに「決して観客というわけではなく、競技場という舞台上での対等な演者なのである」というのは、チャント(応援歌)を歌う中で入場セレモニーが行われる現代のスタジアムでも同じではないか、みたいな。サポーターは「スタジアムという舞台上での対等な演者」なのかもしれないということがフと、頭に浮かんだりする。
また、サッカー選手は常に時代のセックスシンボルであるわけですが、同時にサッカー自体も男性の象徴でもあったのです。ボールは男性器の玉と比べられ、カルチョ・フィオレンティーノを保護したメディチ家の紋章にも玉が入っているみたいな指摘も面白かった。敵将の首を蹴ったのがサッカーの起源みたいな俗説が、どんな本を根拠に引用されているみたいなことも、学術論文だから、キッチリ載っている。
ただ、クリス・ペプラーのセリエAダイジェストやジローラモさんなどによって日本でもなんちゃってイタリア語が浸透している現在、カルチョ・フィオレンティーノでFWの役目を果たすのが「破壊者」っつうところは「破壊者(アタカンテ)」ぐらいにしてもらえると嬉しい人が多かったのではないかと思う。