2004年ぐっときた大賞。
おとぎ話のような時間でした。人によって創り上げられ育てられた「少女」が、やがて自らを決するまでの過程が、彼女を育てる「僕」の、思い出に区切りをつけやがてゆるやかに回復してゆく過程とあいまって軸となり、さまざまな人々がおのおのの運命に返ってゆくのを、目の当たりにしているようでした。
「誰かが誰かを愛している。誰かが何かを愛している」のくだりは、衝撃としか言いようがなかったです。涙がにじみました。
読み終えてなお、心に響き続ける物語です。
物語の進行において、大脳生理学やさまざまなプログラミングについての話が展開します。確かに飛ばし読みはできないとしても、それをはるかに超えて展開される穏やかな「おはなし」に、じっくり堪能できます。
ひさびさに良い本に出会いました。
現代アメリカ文学の一群において、この荘重な物語は、フォークナーに匹敵すると思います。
ノーベル文学賞とってくれ。
AIと感傷
Richard Powersの小説の中では比較的読みやすい。とは言え、英語は相変わらず難しく、語彙が半端ではない上に、たぶん何重にも引用が施されているらしいので、どこまで理解できたかは怪しいところではある。しかし、この小説の場合、引用自体はあまり問題ではないのだろう。AIに文学的感性を教えようとする部分と並行して、きわめて感傷的で自伝的な印象を与える、終わった恋愛が語られる。小説全体としては失恋から立ち直って外界とのコミュニケーションを再度獲得するまでの物語という印象が強い。自己再生とかいった大げさなものではなく、アメリカのインテリがいろいろあったけど、人との関わりに気づいて自己をとりもどすといったような。書かれてから少したつので、インターネットを最初に使ったときの感激を描いている部分などはどうしても古さが目立ってしまう。またAIの記述に関してもコネクショニズムの説明は表層的で、AIが意識を持っているかどうかに関する批判的な記述はなく、割と古風でロマンティックな解釈に終始してしまうのがやや残念ではある。しかし、思わせぶりな反応を見て意識を見いだすのは人間の勝手とすると、これはこれで正しいのだろう。Solarisのような深さはないが。
日本の作家がこのような小説を出版すると、ただひどい批評を受けるだけだろう。しかし、いろいろな意味で正直に自分を描いた小説と感じられ、読後感はむしろ良い。AIという装置に大きな期待を抱かなければ、良い小説と思う
ツマラン
パワーズの著作群の中で、一番ツマラナイと個人的に思っている本作が、なぜこの国で2番目に翻訳されたのだろうか。って疑問を呈してみるも、おそらくの答えは邪推できなくもない。この国の対象読者のスノビズムを一番に満足させることができるから出版されたんだろう。ペダンティックが適度に塗されて、エクスキューズ付きの感傷性がある本作は、想定読者には本当にピッタリ。ツマラナイ作品をなぜツマラナイかわざわざ書くのほど面倒なことはないので少しだけ。
A.Iが既存の文学に言及することによる刺激的で新規な文学解釈が読むことができる小説かと思って期待してみれば、文学作品はタイトルの羅列のみで、その羅列によって描かれる物は、現状の文学界の蛸壺の痴態(本作の主人公にのみ限定するなら作品タイトルであるの自己愛の欺瞞と矛盾)であり、それらを延々と読ませられ非常に苦痛を感じた。
以下は作品内容への穿った邪推。長編作家が、こういう疑似私小説を書くことでセルフカウンセリングすることはその作家の履歴の中では必要な通過儀礼かもしれないが、別に読者はそれにつき合って詣る必要はないのではないか