垣間見える作り手側の心情
佳作だ。絵に描いたような平和な生活が作り物ではないかと疑い出すトゥルーマンのドタバタコメディと、そこから抜け出そうとする真剣なトゥルーマンの姿、その両方がバランスよく描かれ、最後まで物語に惹きつけられた。
この物語は美しいハッピーエンドで終わるのだが、冷静に考えると、あのエンディイングは商業的に大量生産される物語への痛切な皮肉であり、ただの消費者たる観客の残酷さを突きつけているだろう。
観客にとって、物語というのは完全にただの消費物なのだ。物語を作っている人間は、受け手との距離感に戸惑ったことが少なからずあるのだろう。消費者は、次から次へと貪欲に作品を飲み込むだけの、冷徹な他人でしかない。
脚本のアンドリュー・ニコルは、大量生産・大量消費の社会で埋めることの難しい、受け手と作り手との距離感を見定めたかったのではないだろうか。
なんだろう
あんまりコメディじゃないです
でも面白い観ないと分からない
言葉で聞いても分からない
良さがあると思います
方向の間違った愛情
そういうものが交差しています
でも、それも「愛」ではあるのです
全体的に優しいです
ジム・キャリーって、なんだかキュンとする
母性本能を擽る何かがあると思う
そう思っている人は観るべきです
そうじゃない人も観る価値はありますが(w
怖い
出生・成長・出会い・別れ・苦しみ・楽しみ・喜び、全てが作られたジオラマの中での操作された人生だったら?それを数十年に渡って眺め、笑い・泣き・喜ぶエゴイズムの権化としか呼べないテレビ番組があったら?作られた世界での彼の生活と共に生き、虚構と現実の世界を行き来することができる存在に自分がなったら?作品自体の流れはともかくとして、見終わった後に「怖い映画だな。」と思わされた作品。外の世界に出たトゥルーマン・ショーを長年に渡って見続けた視聴者は、テレビ放送の中でのサブリミナル効果によって密かに洗脳されていた。トゥルーマンがショーのセットから出た途端に視聴者は彼を追い始める、外の世界は敵だらけ。逃げ続ける彼の味方は誰もいない。窮地に立たされた時、世界中で正体不明の病原菌が蔓延する、次々と人々が死んでいく中でトゥルーマンは自分にその病原菌に対する免疫があることに気がつく。セットの中で生きてきた彼には外の世界の人々とは違う免疫が育っていたのだ。生まれてきてからの人生を全てさらし者にされていた彼は、全世界を救うのか!?
などという続編を考えてみたのだがどうだろうか。(どうもこうもない。)